130年ぶりに甦った「高倉人形浄瑠璃座」。その復活の足どり

江戸時代から明治時代にかけ、現在の郡山市日和田町高倉地区に、人情浄瑠璃を上演する一座が存在しました。人形浄瑠璃は江戸時代初期の淡路島や徳島を発祥とし、大阪を中心としたいわゆる「上方」から各地へ人気が広がった古典芸能の一つですが、東北にその文化が根付いた記録はほとんどありません。そのため、高倉の人形浄瑠璃は「東北唯一」とも「北限の一座」とも言われてきました。

そんな高倉人形浄瑠璃座が今、地域のつながりを守りたいと願う人たちの手により約130年ぶりに復活。地道な活動が続けられています。

※「地域と文化の魅力ラボ」では、2025年2月2日(日)に高倉人形浄瑠璃の操演体験会を開催します。詳細は「魅力ラボ」TOPページをご確認ください。
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地域の人々を人形で再びつなげたい

江戸時代に宿場町として多くの旅人が往来した高倉地区。そこに人形浄瑠璃の一座ができたのは、江戸時代中期のことです。数少ない地域の娯楽として人気を博し、会津や仙台、水戸などへ巡業に行くこともあったといいます。しかし、時代が明治へ移ると一座は徐々に衰退。明治26(1893)年にその歴史の幕を閉じました。

もちろん、当時の一座の姿を知る人は、今や誰もいません。しかし、一座が使っていた人形や道具の数々は、かつてそこに確かに芸能が根付いていたことの証として大切に保存されてきました。昭和30(1955)年にはそれらが福島県の重要有形文化財に指定され、日和田公民館で保管・展示されるようになりました。

日和田公民館に勤め、自らも日和田町に住んでいた井上まゆみさんは、2017年、自身が館長になったことを機にこの「高倉人形」に着目します。

「昔から日和田にいる人たちはみなさん、ここに人形があることを知っています。いつかは実際に人形が動くところを見てみたいと考える人も多く、ただここに飾っておくだけではもったいないと以前から思っていました。地域のコミュニティが崩れ、人と人との関わりが薄くなってしまったこの時代にこそ、人々を再びつなげる一助として高倉人形を使えないかと考えました」


現在高倉人形浄瑠璃座の事務局長を務める井上まゆみさん

札幌の人形浄瑠璃座に復活の協力を直談判

復活に際して大きな力となったのは、北海道札幌市で1995年に設立された「さっぽろ人形浄瑠璃あしり座」の存在です。代表の矢吹英孝さんは福島県出身。東日本大震災以降、ボランティアでたびたび福島を訪れ、公演やワークショップを通して復興を後押ししようと活動していました。それを知った井上さんは、福島を訪れた矢吹さん達に協力を直談判します。

「どうやったら協力してくれるだろう」と不安を感じながら想いを伝える井上さん。しかし矢吹さん達は、井上さんのその不安を一掃するように「あの高倉人形を復活させるのですか!」と喜び、井上さんの願いを快諾しました。実は、その日からさかのぼること数ヵ月前、あしり座のみなさんは、東北における人情浄瑠璃文化の貴重な遺産である高倉人形に興味を持ち、日和田公民館を訪ねていたのです。

そんな偶然が後押しとなり、2017年、日和田町内の有志が集まって、「復活! 高倉人形プロジェクト実行委員会」が発足。県の復興関連助成金などを活用して資金を調達し、札幌からあしり座のメンバーを、また東京からはあしり座の指導を手掛ける西川古柳さんを招き、定期的な稽古をスタートしました。


「あしり座」の指導の様子

コロナ禍にはリモートで稽古を継続

人形浄瑠璃で使われる「三人遣い」と呼ばれる人形は、首と右手を操る人(主遣い)、左手を操る人(左遣い)、両足を操る人(足遣い)の3人で一体の人形を操作します。3人が息を合わせて操作することで初めて人形に命が宿る人形浄瑠璃は、地域のつながりを活動の原点に据えていた井上さんにとって、まさに絶好の存在でした。

この取り組みを長くつないでいくためには、地域の子どもたちのプロジェクト参加が欠かせません。井上さんは、子どもたちの興味を引きつけるのに最も効果的なのは、人形のリアルな動きに触れさせることだと考えます。しかし、立ち上げたばかりのプロジェクトには、子どもたちが直接触れられる人形がまだありませんでした。もちろん、文化財に指定されている古い人形を持ち出すわけにもいきません。

そこで井上さんは、あしり座と小中学校に掛け合い、あしり座の学校出張公演を企画します。いきいきとした人形の動きは多くの子ども達の興味を引き、およそ20人がプロジェクトに参加することになりました。彼らは地元で、また時には札幌まで足を運んで、さらにコロナ禍にはリモートで、日々稽古に励みました。

「私の信条は、できないことを言い訳にしないこと。お金、コロナ、運営の手間など、いろいろな壁がありましたが、言い出しっぺの私が弱音を吐くわけにはいかないですし、あしり座のみなさんや先生も全力で取り組んでくださるので、私たちも全力で受け止めなければいけないと思って続けてきました」

そう語る井上さんら実行委員のみなさんの地道な活動は、やがて福島県内はもちろん、あしり座の拠点である北海道のメディアでも取り上げられるようになり、注目を集める存在となっていきます。2023年には団体の名称を「復活! 高倉人形プロジェクト実行委員会」から「高倉人形浄瑠璃座」へと変更。伝統を真に受け継ぐ一座として自他共に認める存在となりました。

アットホームであるからこそ続けてこられた

高倉人形浄瑠璃座は毎年3月、1年間の稽古の成果を披露する場として、郡山市内のホールで発表会を開催しています。現在のメンバーは、大人約30名、子ども約10名。それぞれに役割を果たし、市民向けの親しみやすい要素も盛り込みながら、人形浄瑠璃の魅力を私たちに伝えてくれています。

「大人も子どもも同じ目標を持ち、真剣に稽古をしてきました。でも、ただ稽古を重ねただけでは続けてこられなかったかもしれません。私たち大人は本当の孫のように子どもたちに世話を焼くことが楽しいですし、子どもたちにとっては、家とも学校とも部活とも違う居場所として居心地が良いのかもしれません。そんなアットホームな雰囲気だったからこそ、ここまで活動できたのかもしれないですね」

人形浄瑠璃や伝統芸能と聞くと敷居が高いイメージを持つ方もいらっしゃるかもしれません。しかし、高倉人形浄瑠璃座には、地域発祥の一座ならではの温かさや親しみやすさがあります。一座のみなさんは今日も、ともに声をかけ、笑い合いながら、次の発表会へ向けて稽古を重ねています。

※「地域と文化の魅力ラボ」では、2025年2月2日(日)に高倉人形浄瑠璃の操演体験会を開催します。詳細は「魅力ラボ」TOPページをご確認ください。
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■高倉人形浄瑠璃座
場所:福島県郡山市日和田町字小堰23-4(日和田公民館)

文/髙橋晃浩

福島県指定伝統工芸品「海老根伝統手漉和紙」の工房で和紙作りのイロハを知る

ユネスコの無形文化遺産に登録されるなど、世界に類を見ない特色ある技術で受け継がれてきた和紙の文化。かつては全国各地に和紙作りの文化が根付いていましたが、後継者不足やデジタル社会への移行などの影響もあり、その文化が途絶えてしまったケースも少なくありません。

そんななか、一度は途絶えた地域の和紙作り文化を復活させ次代へ受け継ごうとする活動が、郡山市中田町で続いています。

※「地域と文化の魅力ラボ」では、1月19日(日)に海老根伝統手漉和紙の紙すき体験会を開催します。詳細は「魅力ラボ」TOPページをご確認ください。
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江戸時代に始まり、最盛期には80戸が和紙を生産

市内中心部から約10km南東に位置する郡山市中田町海老根。阿武隈高地の山あいに集落が点在する、のどかで緑豊かな地域です。

その集落の一つ、北向地区では、江戸時代から和紙作りが盛んにおこなわれてきました。その歴史は350年をゆうに超えます。決して豊かではなかった農村の暮らしを支える農家の副業として、最盛期には約80戸もの家が冬場の農閑期の副業として和紙作りをしていたそうです。

しかし、品質の高い和紙を作るためには多くの手間がかかります。また、冬場に冷たい水を使っておこなう作業は体への負担も大きく、そこに後継者不足や時代の流れも重なって、一軒また一軒と和紙作りを断念。1988年、ついに最後の一軒が工房を閉じ、その歴史は途絶えました。

しかし、それから10年後の1998年、地元の貴重な伝統文化を後世に残したいと、かつて和紙の生産や販売に関わっていた人たちが集まり、「海老根伝統手漉和紙保存会」が結成されます。北向地区に工房を構え和紙作りを再開すると同時に、その伝統を後世へつなぐさまざまな活動をスタートさせました。その取り組みが評価され、2003年には福島県の伝統的工芸品に指定されています。

農作業がない時期が和紙作りに最も適した時期

和紙の原料となるのは3つ。クワ科の木である「楮(こうぞ)」の皮と、アオイ科の植物「トロロアオイ」の根、そして、冷たい水です。楮は、中田町内に自生しているもののほか、近年は保存会で植樹もおこない、原料の確保に努めています。トロロアオイは工房近くの畑で栽培されています。


町内の山から切り出された楮(こうぞ)の枝

切り出された楮の枝は、まず工房脇の大きな窯で煮出し、皮が剝がされます。剝がれた皮のうち黒い表皮は取り除き、薄いクリーム色をした内側の皮のみを材料として使います。強い繊維質をもつこの皮を小槌などで叩き、繊維質を絡ませることで、和紙ならではの強度が生まれます。

一方、トロロアオイの根は、小槌などで軽く叩き潰したうえで、冷たい水につけておきます。しばらくすると根から出た液体と水が作用し、粘液が生まれます。この粘液は「ネリ」と呼ばれ、楮の皮の繊維質をつなぎ固める役割を担います。「すき舟」と呼ばれる道具に冷たい水を張り、出来上がった楮の皮とネリを入れてかき混ぜれば、あとは紙すきの作業に移ります。


トロロアオイの根

ただし、楮とネリを入れる水は冷たくなければいけません。温かい水ではネリが絡まないからです。これが、和紙作りが農閑期の副業であった理由の一つ。田んぼの作業がない11月~3月頃が和紙作りに最も適した時期なのです。

自然のままの色合いが魅力の「生紙(きがみ)」

紙すきは、「簀桁(すけた)」と呼ばれる専用の道具を使って作業します。和紙の品質はこの簀桁の使い方で決まるといっても過言ではありません。すき舟の中の材料を簀桁で適量すくい上げ、前後に揺らしながら均等に伸ばします。


簀桁(すけた)

紙すきが終わると、次は乾燥の工程です。昔は天日干しで乾燥させたそうですが、現在は工房脇にあるボイラーで熱した鉄板に和紙を貼り付けて乾燥させています。乾燥の過程で紙にしわが寄らないよう、貼り付けた紙を椿の葉でなめして仕上げていきます。

さまざまな工程を経て仕上げられた海老根の和紙。その特徴は、時間の経過とともに風合いが変わっていくこと。現在一般に販売されている和紙は、製造の工程で漂白剤などの添加物を混ぜることで白く美しい紙に仕上げています。一方、海老根の和紙作りでは添加物を一切使わないため、楮の皮と同じような薄いクリーム色をしています。その色が時間と共に白く変化していくことから、保存会の人たちは自分たちの紙を「生紙(きがみ)」と呼び、海老根の和紙の大きな特徴として受け継いでいます。

自らすいた紙が小学校の卒業証書に

保存会が立ち上がって四半世紀。いま保存会では、その活動を次の世代へとつなげるため、多くの市民に和紙や紙すきの魅力を広める活動に取り組んでいます。毎年9月には、工房周辺を和紙灯籠で彩る「海老根長月宵あかり 秋蛍」を開催。20年以上続く、郡山の秋を代表するイベントの一つとして定着しています。


海老根長月宵あかり 秋蛍

また、中田町に育つ小学生たちは毎年、校外活動で紙すきを体験します。自分たちがすいた和紙を学校の図工の時間に使っているほか、卒業式では自ら漉いた和紙でできた卒業証書を受け取ります。そうした経験のなかから、和紙作りという地元が誇る文化に興味を持つ子どもが一人でも多く現れてほしい。それが保存会のみなさんの願いです。

2022年には工房が新しくなり、見学や体験で訪れる人たちが海老根の和紙の魅力により触れやすい環境となりました。中田町の、そして郡山市の貴重な文化遺産である海老根伝統手漉和紙を後世へとつなぐ取り組みは、これからも続きます。

※「地域と文化の魅力ラボ」では、1月19日(日)に海老根伝統手漉和紙の紙すき体験会を開催します。詳細は「魅力ラボ」TOPページをご確認ください。
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■海老根伝統手漉和紙保存会
場所:福島県郡山市中田町海老根北向130-1(工房)

文/髙橋晃浩

約400年の歴史を誇る「南須釜念仏踊り」。子ども達の誇りのために続けたい

色鮮やかな着物をまとい、花笠を乗せた可憐な姿で念仏踊りを披露する子どもたち。福島県玉川村南須釜地区に伝わる「南須釜念仏踊り(みなみすがまねんぶつおどり)」は、江戸時代の寛永年間(1624年-1644年)から約400年続く歴史ある踊りです。毎年4月3日と8月14日に開催され、県の重要無形文化財と国の選択無形民俗文化財に指定されています。南須釜念仏踊り保存会の小原安春会長に、その歴史や伝承の取り組みを聞きました。

静かな集落が華やぐ年に2回の念仏踊り

阿武隈高地の緑豊かな山並みに囲まれた玉川村南須釜地区。普段は静かな山里ですが、年に2回、色彩にあふれたひときわ華やかな雰囲気に変わります。4月3日は、集落にある東福寺薬師堂の例大祭として東福寺の境内で踊りを奉納。8月14日は、東福寺の境内で踊った後、新盆の家を一軒ずつ巡り、供養の踊りを捧げます。4月は着物姿で、8月は浴衣姿で踊ります。

地区の集会所を訪ねると、念仏踊りの衣装に身を包んだ子どもたちがすでに準備を整えていました。その数24人。過疎化による担い手不足の影響を受け多くの地域で祭が姿を消すなか、ここにはたくさんの子どもたちが集まっています。

「でも、コロナの前までは5~6人しかいなかったんですよ。」

小原会長はそう振り返りながら、踊り手が増えたきっかけを教えてくれました。

「時代が変わって、南須釜にいる子どもだけではやっていけなくなってきました。南須釜の祭ではありますけど、次の時代に残すためには、もっと多くの子どもに参加してもらわなくてはなりません。そこで、今は玉川村全体の子どもに声をかけ、参加してもらうようにしています。」

参加するのは、幼稚園の年中から小学6年生まで。6年生は、中学校に上がる年の4月の踊りを最後に踊り手を卒業します。かつては男子も踊っていたそうですが、現在は女子のみが踊っています。

「幼稚園のお子さん達は、まだまだ踊るという感じではないですけどね。大人に習うことも大事ですけど、実際にお姉ちゃんたちが踊っている様子を間近で見て覚えていくことも大事だろうということで、早いうちから仲間に入ってもらっているんです。」

大正~昭和期の断絶を経て昭和27年に復活

400年の歴史を誇る南須釜念仏踊り。その発祥を小原会長はこう語ります。

「子どもたちが寺小屋でいろいろな学問を教わっていた江戸時代、この集落も、東福寺に子どもが集まって、お坊さんからお経やら何やらを教わっていました。でも子どもがお経を覚えるのは難しい。そこで、少しでも覚えやすいようにと、お経に節をつけて歌にして、踊りと一緒に子どもたちに教えた。それが始まりだといわれています。」

大正5年からの35年ほど、念仏踊りの伝統は一度途絶えました。第二次世界大戦など、いくつかの戦争の影響がそこにはあったといいます。戦争が終わり、南須釜にも再び平和な世の中がやってくると、あの華やかな念仏踊りを復活させようと、地域の人々が動き出しました。

「大野ケサさんという明治生まれのおばあちゃんが、子どもの頃にやっていた踊りを覚えていたんです。それを集落の人に教えて、昭和27年に再興されました。それからは、コロナ禍で中止した年もありましたが、70年以上続いています。」

現在は、12名いる役員が中心となり、次の世代への伝承に取り組んでいます。

指導者や衣装の確保にも奔走

練習は、月に1回、第3土曜日に定期的におこなっています。4月と8月の念仏踊りが近づくと、2週に1回程度に練習のペースを上げて当日に備えるそうです。

「指導に入ってくれているのは、かつて踊り子だった地域の人たちです。子どもが大きくなって手がかからなくなったような人に声をかけて手伝ってもらっています。結婚などで集落を出て行ってしまう人も多いので、子どもたちだけでなくて指導者を確保するのも一苦労。それもまた、玉川村全体に参加対象を広げた理由の一つです。」

今後の活動について、小原会長はこう語ります。

「これまでも、要請があれば東北の各地へ行ったり東京へ行ったりして踊りを披露してきました。これからも、披露する機会をいただいたときにはできる限り参加して、たくさんの人に知っていただきたいと思っています。また、そうすることで、素晴らしい伝統が地元にあるんだということを子どもたちが感じ、誇りに思えるようにしていきたいと思います」

最近では、踊り手の人数が増えた分、衣装の数を確保することが新たな課題になっているとか。現在の衣装や花笠は助成金などを活用して確保しましたが、伝統を繋いでいくためには、地域とのより深い関わりが欠かせません。その関わりを模索しながら、念仏踊りの伝承はこれからも続いていきます。

■南須釜念仏踊り
場所:東福寺(福島県石川郡玉川村南須釡久保宿70)
開催:毎年4月3日、8月14日
問い合わせ:南須釜念仏踊り保存会(代表:小原安春会長)
Tel.080-1821-9668
HP(玉川村観光物産協会):http://tamakawa-kanko.jp/watch/01.html

文/髙橋晃浩

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